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Angelic Arietta 2




まともに知っていることと言えば、誕生日ぐらい。

改めて思う。
何も知らないんだって。

昔事故で負ったらしい左手の怪我。
そのせいで捨てたという、けれどねだると弾いてくれるピアノ。
わたしが大好きなその音色。
綺麗な銀色の髪。
意地悪で・・・・ちょっと過保護。
ずっと年上のあの人は、いつもわたしを子供扱いする。

『過去』の話は、人伝に聞いたことばかりで。
それすらも断片的で。
『今』の彼のことも、本当はほとんど知らない。

なのに、彼は知ってる。
わたしのことを、きっとわたしよりも。

ずるい。

そう思うのは、やっぱりわたしが子供だから、なのかな ――――――――――――



「何度言ったら判るんだ、おまえはっ!!」

大声で怒鳴られて、アンジェリークは首を竦める。
けれど次の瞬間、椅子に座っている自分の横に立つ青年を睨み上げる。
「そんなふうに言わなくったっていいじゃない!」
「だったら言わせるなっ!!」
彼は本当に苛立った顔で、彼女を見下ろす。
「間違えても止まらずに、スコアの最後まで弾けって言ってるのが判らないのかっ!!」


今月の末の日曜日、少女が通うピアノ教室ではその腕前を披露する発表会がある。
けれど、その期日が迫っても彼女は与えられた課題が弾きこなせなくて。
いや、まだまともに弾くことさえ出来ていない状態で。

悩んで迷った末、アンジェリークは大好きな人に頼ってしまった。
・・・・・・出来ることなら、頼りたくなかったが。

喧嘩になることは必死だったから。


「間違えたら駄目でしょう?!」
「そんな完璧主義、今のおまえには必要ないっ!!」
自分の実力を考えろと言われ、ピアノの前に座る少女は思わず涙をにじませる。
「でも・・・・!」
「うだうだ言ってる暇があったら、さっさと弾け!俺もそんな暇人じゃないんだ。」
その冷たい言葉に、アンジェリークの中で何かがキレた。

「・・・・・待て。」
突然立ち上がり片付けはじめた少女に、青年は呆れ交じりの声を掛ける。
「『発表会に間に合わない』って俺に泣き付いたのは、おまえだろうが。」
「・・・・・・・ええ、そうよ。でも、人選間違えたかも。」
カバンの止め具をパチンと締め、彼女は彼を見上げる。
「とってもお忙しいみたいだし。・・・・第一、アリオスみたいな天才にわたしの気持ちなんて理解できないんだわ。」
「おい・・・・・」
「・・・・・じゃあね。」
呼び止めようとする声を無視して、少女は夕闇の中に出ていってしまった。

それをおめおめと見送って。
部屋の主は、息を吐いてソファーに座り込む。
そしてタバコに火を着けようとするが、なかなか着かず。
苛立ち紛れにタバコとライターを壁に投げ付ける。

「・・・・・・・・・・・誰が天才だって?」

その口には自嘲的な笑み。
心底自分を嫌っているものにしか出来ない表情。

目を閉じて脳裏に浮かぶのは、思い出したくない光景と耳を塞ぎたくなるような罵言。
そして、聞こえる車の急ブレーキの音。
胸が裂けそうな苦しい思い出。
彼女が知らない彼の過去。

そこには、数々のコンクールを総なめにした少年の姿はなかった。
ただ自分の手を見つめ、呆然としている銀髪の青年がいるだけだった。

失ったものが大きすぎて。
現実感がまったく感じられなかった。
信じることも出来なかった。

けれど、かつての『天才』に。
その『栄光』に取り縋っていた世間は、いや、家族さえも、冷たく当たり。
否が応でも現実に戻された。
そして ――――――――――――――――――


「ったく、仕方ねぇガキだな。」

一つ溜め息を吐き。
それで不毛な思いを振り切って、気を取り直したように立ち上がる。
「間に合わなかったら、責められるのは俺なんだぞ。」
ソファーの端に引っ掛けてあったジャケットを引っ掛けて、アリオスは癇癪を起こした彼の彼女を追いかけたのだった。



バカ、バカ、バカ、バカァ!!!

アンジェリークは心の中で悪態つきながら、油断すれば零れそうになる涙を必死に堪えていた。
本当は自分でも判ってる。
今の実力では発表会用に選ばれた曲を完璧に弾きこなすことなど、到底無理だと言うことは。
彼の言うことはもっともだ。
発表会の本番で途切れ途切れの演奏など、客はとても聞いていられないだろう。
ならば例え間違えても、迷わず最後まで一気に弾いてしまった方がいい。
その方がよっぽど潔いことなど、とっくに判ってる。

なんで弾けないんだろう。
すごくもどかしい。
理想と現実が一致してくれない。

理由は分かっているけれど。
それも自業自得なのだけれど。

自分が悪い。
アリオスは少しも悪くない。
ちゃんと判ってる。
なのに、つい言い合いになってしまう。

もどかしいのは、彼も同じだろう。
否、きっとアンジェリークが感じているのよりも数倍のもどかしさ。
それは彼女のピアノだけじゃない。
自分が奏でる音に対してのこと。

彼はかつての自分自身の実力を知っている。
思うように弾けない苦しさは、彼女が想像もつかないものだったに違いない。
少女にしてみれば、青年のピアノの音色はとても心地よいものであるが。
ねだらなければ弾いてくれないのは、おそらくそのキャップに納得できないから。
傷つきたくないから。

彼女は『天才』と謳われていた頃のピアノを知らない。
聴いたことがない。
それだけは誰も教えてくれない。
おそらく調べようと思えば、知ることは出来るだろうけれど。
けれど、アンジェリークは恐かった。
他のことならどんな些細なことでも知りたい。
でも。

『世界的少年ピアニスト』を知ることだけは、なぜか恐かった。
自分の知らない、手が届かない存在だった頃の彼を認めたくなかった。

「・・・・・・・・・・・謝ろうかな。」

口は悪くても、それは自分を思ってのことだと思うから。
自惚れかもしれないけれども。
忙しくても、付き合ってくれているのは心ある証拠だと信じたい。

少女が好きなのは『過去』の少年ではなく、『今』の青年。
今の彼のピアノを認めてあげられるのは自分だけだと思うから。
子供っぽい独占欲だけど。
他の誰が願っても、彼は演奏しようとしない。
そのピアノは、紛れもなく自分だけのモノだから。


「うん・・・・・・そうしよう。」

そう呟いて彼の部屋に戻ろうと振りかえった瞬間。
目の前にあったのは見覚えのあるネクタイ。
彼女がとある人の去年の誕生日にあげたもの。
そして、ついさっき別れた人が締めていたもの。

「アリオス・・・・・・」
アンジェリークはそこから目線を上げて見上げる。
「・・・・・・勝手に出て行くな。」
「じゃあ、出て行かせるような言い方しないでよ。」
目を細めて見下ろされ、思わず睨み付けてしまう。

謝ろうとは思っているのに。
出て来る言葉は、何故かけんか腰で。
ほとほと自分が嫌になる。

「悪かった。」
いつもより低い声で謝られ、驚く。
けれどもっと驚いたのは、その大きな手で両頬を挟まれて覗き込まれたこと。
「ア、アリオス・・・・?」
透き通るような瞳に見つめられ。
触れられている部分はけして彼の温かさだけじゃない熱を帯びる。

街中、公衆の面前で。
こんなことをするような人ではない。
今まで一度もなかった。
口では色々言っても、こんなところでこんな真似はしなかった。

「悪かったな。おまえだって好きで上手く弾けないわけじゃないのにな。」
余りに素直に謝られたのと恥ずかしさで。
パニックを起こしそうになる。
「そんな、だって、わたしも、悪いし・・・・・・」
しどろもどろになってしまう。
「け、けど、あんなふうに怒鳴らなくったって・・・・」
「そうだな・・・でも、」

「それでも、俺のこと好きだろう?」

口の端は自信満々に上げられ。
目の前の人物がどういう性格をしているのか思い出す。
すなわち。

「どーして、そういうことを今聞くワケッ?!」

からかいだけで言っているわけじゃない。
本気で言っているのだ、彼は。
恥ずかしいことだと思っていない。
時と場所を選ばないのだった。

だから時と場所を選んでしまう少女は、真っ赤になって怒鳴ってしまうのだった。
選んでさえくれれば、彼女だって喜んで素直に答えるものを。
いつも答えられない時に尋ねるから、まるで怒ってばかりいるように思われているんじゃないかと危惧する。
それだけならともかく、嫌われていると思われたら。
上手く返事が出来ない子供な自分に落ち込んでしまうのだった。

・・・・・・もっとも。
嫌われていると感じているのなら、こんなに自信を込められた態度は出来ないだろうが。

「もう!せっかく人が謝ろうと思ってるのに。」
「クッ・・・・・あぁ、悪かったよ。」
彼女から身を剥がし、彼は再び目を細める。
但し、今度は不機嫌そうではなく満足そうに。
それを認めて、少女は機嫌を直す。
「いいわよ、許してあげる。」
なのになぜか苦笑されてしまい、眉を寄せる。
「・・・・・何がおかしいの?」
「いや、別に。」
わざとらしく逸らかしながらも、アリオスはアンジェリークに笑い掛けてくれたのだった。


「さて・・・・・帰るぞ。」
「あっ、待ってよ。」
さっさと歩き出した彼に彼女は小走りで追いついて隣に並ぶ。
「・・・・・・・俺に付いてきたな。」
その意味ありげな表情に嫌ぁな予感がする。
「な、なによ?」

「今夜は俺と徹夜だな。」

「・・・・・・・・はい?」
何故そうなるのか理解できず、頭ひとつ分高い青年を覗き込む。
「眠らせねぇからな。」
「え゛?」
そのセリフに思わず赤くなる。
が、彼が続いた言葉は少女が逃げ出したくなるものだった。

「徹夜で課題曲仕上げてやる。覚悟しろよ、アンジェリーク。」
クククと笑う彼は、悪魔の顔をしていた。
それを見て思わず後ずさりをしたくなってしまう。
「いや、あの、そんな急がなくても・・・・・・」
「・・・・・・急がなくても、だと?」
ピクリと銀色の眉が上がる。

「元はと言えば、おまえが練習嫌いなのがいけないんだろうがっ?!」

「だって〜。」
もっともなことを怒鳴られ、少女は泣きたくなる。
「だってもクソもあるかっ!!もし仕上がらなかったら、イヤミ言われるのは俺なんだぞ!!」
「そりゃそうかもしれないけど・・・・・って、自分のことしか考えてないの、アリオス?!」
「ついでにおまえも恥かくだろうが。」
「ついでなのっ?!」
彼女は眉を寄せて彼に不服を唱える。
「『まぁ、あなたがついているのに、あの出来なの?』って言われてみろ、腹が立つだろうが。」
「・・・・・・事実でしょ。」
「事実にしたくねぇんだよ、俺は。」
こんな時だけ自分の実力を認めるなと、思いっきり鋭い目に睨みつけられ。
アンジェリークは顔を引き攣らす。

「とにかく、ちゃんと聞けるぐらいにはしてやる。・・・・・そうだな、死ぬ気で頑張れば、」
そこで言葉を区切り、人の悪い笑みを浮かべて彼女を見下ろす。
「ご期待に添えるぐらいの時間はあるだろう。」
「は?」
きょとんとして、首を傾げ。
先程の彼の言葉に対する自分の反応を思い出す。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だっ、」

「だから!!どーしてそんなこと、ここで言うのよっ?!」



けれど、やっぱりその日は徹夜で。
朝まで同じ曲を繰り返し弾いていた。
指が痛くなるほどに。

そして彼に溜め息と共に及第点を貰い。
同時に眠気にも襲われて。

疲れきった体で大好きなピアノの音を聞きながら、夕方まで幸せな眠りに就いたのだった。