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執事さんの溜め息
レヴィアス様は、アンジェリークがお気に入りだ。
私の名はカイン。
アルヴィース家のいくつかある別邸のうちの一つであるこの屋敷の執事長を任されている。
この館の主は、次期当主候補であるレヴィアス様。
本邸にお住まいになられているご当主の嫡孫に当たる。
にもかかわらず、『候補』に過ぎないというのは・・・・まあ、いろいろあってのことなのだが。
ともかく。
我が主は、単なる使用人の身内である少女をお気に入りだ。
そう、今朝も・・・・・・・
「カイン、アンジェリークはどうした?」
出掛ける主を見送る私に向かって、不意にレヴィアス様は尋ねられた。
当館の使用人である叔母と共に住み込んでいる彼女は、毎朝学校へ行く前に私と共に主を見送るのが習慣となっている。
なのに、その姿が見えないのを不審に思われたらしい。
「・・・・まだ、のようですね。」
自分の一言で一気にご機嫌が悪くなられるのが、気配だけで判る。
けれどそのようなことをいちいち気にしていては、この方には仕えてはいられない。
例え、どんなに理不尽な八つ当たりをされようとも。
「もうお出掛けにならなければ、遅くなりますが。」
「判ってる!」
・・・・・絶対、判っておられない。
その証拠に、待たせている車まで歩みを進められているものの、どう見てもいつもの速度の半分以下。
その上、度々屋敷の中を苛立った表情でお見遣りになられる。
まるで少女が急いで駆けて来るのを待っているかのように。
いや、事実、待っていらっしゃるのだろうが。
「レヴィアス様!いい加減、お急ぎになりませんと!」
深い溜め息を吐きながら、私は苦言を申し上げる。
遅れると色々とまた面倒なことになることは、明白であるのに。
そんなに後ろ髪引かれるのだろうか。
「・・・・・帰りはちゃんと迎えるように伝えろ。」
やっと諦められて、渋々車に乗り込もうとする。
「カインさん、おはようございます〜っ!」
だがその時、待ち人がやって来てしまった。
想像通り、かなり慌てた様子で走って来て玄関先に立っていた私に挨拶する。
「アンジェリーク、廊下を走るなと言っておいたはずですが。」
振り返り、私は制服の少女に注意する。
いくら絨毯が敷き詰められているからと言ってもやはり廊下を走るのは危険。
怪我をする可能性だって十二分にありうる。
「あっ・・・・・すいません。」
「それと・・・・いい年をしたお嬢さんが物を食べながら、通学するなど言語道断です。」
「ごめんなさい・・・・その、寝坊して、遅刻しそうだったから。」
小さく謝る彼女の手にパンを見付けて、さらに重ねて不作法さを忠告する。
――――― が。
その瞬間、背筋にぞわっと戦慄が走る。
さっ・・・・・殺気が。
これ以上ない殺気が私に注ぎ込まれているのを感じる。
恐る恐る振り返ると、開いた後部ドアの前で主人が射殺すような目付きで睨んでいる。
わ、わたしは悪くないでしょうが・・・・・・
身の安全としつけをしているだけで、もちろん苛めている訳では絶対ない。
むしろ感謝して頂きたいほどなのだが。
けれど視線のプレッシャーは、私に体の強張りと冷や汗をもたらすばかりで。
とても諫言できる状態にはない。
「・・・・・・アンジェリーク、来い。」
「あっ・・・・・・・・はい・・・・」
視線を私の前方に移されて、やっと緊張感から解放される。
どうしてこんなことで、朝から無駄な精神力を使わねばならないのだろう。
「いってらっしゃいませ、レヴィアス様・・・・・」
私の横を摺り抜けた少女は、立っている主を見上げて見送りをする。
これで、レヴィアス様もやっとお出掛けになられるだろう。
そう思ったのだが。
「遅刻しそうなんだろう?乗って行け。」
聞こえた主人の声にぎょっとする。
「レヴィアス様っ!そのようなことっ・・・・・・!」
「おまえには言ってない。」
思わず声を上げてしまうが、やっぱり綺麗に切り捨てられて。
・・・・ああ、そうでしょうとも。
こうなると、いくらお諌めしても無駄。
ご幼少の頃からこうなのだ、この方は。
「あの・・・走って行けば、間に合いますから。」
けれどアンジェリークは困った顔でレヴィアス様にお断りをした。
それはそうだろう。
主と使用人は馴れ合ってはいけない。
普通はそれくらい常識なのだから。
もちろん厳密には彼女は使用人ではないのだが。
それでも、あまり良いこととは言えない。
だが我が主は眉を下げた少女の耳元で何事か囁き、彼女は急にあたふたと慌て出す。
「そう・・・・・いえ、別に違・・・・」
一瞬のうちに耳まで赤くなるのを見て、主人は口元を緩ませ微笑みになられた。
いったい・・・・何をおっしゃったのだ?
もっとも尋ねたところで、言われた方も言った方も口は割らないだろう。
例え聞こえたとしても、耳が腐るだけな気がするが。
「それに・・・・・・」
顔を顰めてその光景を眺める私にはもちろん目もくれず、主はもう一度その耳に言葉を紡がれる。
もちろん、私の耳には届かない音量で。
「っ?!」
それを聞いて目を見開き、少女はあたふたとさせていた体を今度は硬直させる。
「図星だろう?だから、乗って行け。・・・・いいな?」
頬を染めて固まった姿にクッと笑って、レヴィアス様はアンジェリークを車に押し込めてしまわれた。
主人に向かって失礼であることは重々承知しているのだが。
今更ながらに呆れてしまう。
まったく・・・・子供相手に何をなさっているのだ、この方は。
せめて、毎日、朝から玄関でいちゃつかないで頂きたい。
ほとんど無理矢理見せつけられている私の方が恥ずかしい。
「では、行ってくる。」
先程よりも和らいだ顔で主人は出掛けを知らせる。
「・・・・・・いってらっしゃいませ。」
それに対して疲れた顔で私は見送りを口にする。
この件に関しては、もう何を言っても無駄な気がする。
好きにしてもらった方が精神衛生上にも良い。
そう・・・・今は。
走り去っていく黒塗りの車を見ながら、私は思う。
二人のことが大旦那様達に知れたら、どんなことになるか。
そのことを思うと、かなり頭が痛いのだが。
・・・・とりあえず。
アンジェリークはちゃんと学校へ送り届けて下さいよ、レヴィアス様!!
私は天に祈るような気持ちで、屋敷の扉を溜め息を吐いて閉めたのだった。