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Angelic Arietta3
小さい頃。
当たり前のようにそこにあった暖かい風景。
それは、ある日突然無くなってしまったけれど。
幸せだと思うことすらなかったほど、幸せだったあの頃の情景。
それは今、過去への無い物ねだりと言うより、未来への願いとして胸の中に存在する。
いつか、あの人と築けたらいいと・・・・・思う。
恥ずかしくて、そんなことはとても言えないけれど。
言えばまた馬鹿にされることがなんとなく予想できてしまうから。
子供扱いされることが判ってるから。
今はまだ、大それた望みかもしれないから。
それに。
ひょっとしたら。
――――― 一人よがりな想いかもしれなかったから。
「アリオスなんて大っ嫌いっ!!」
そう言って立ち上がった少女を、嫌いと言われた青年は溜め息を吐きながら見上げる。
その態度が一層彼女を苛立たせて。
普段ならけして言わない言葉を涙を浮かべながら口にする。
「もう、いい!!別にあなたと付き合わなくたって、わたしだって少しぐらいモテるんだから!!」
「別れましょうっ!!」
恋人の部屋で彼の帰りを待っていた少女は、今日食して一年の無病息災を願う料理を作ってみた。
だが、それは学生に課せられた終わり間近の冬休みの宿題と言うものと平行してやってしまったので。
帰ってきた青年が焦げ臭い匂いに声を上げるまで、それに気が付かなかった。
うかつと言えば、うかつなのだが。
珍しく懸命にそれをこなしていた彼女には災難なことで。
それでもお焦げになってないところを掬って、お茶碗によそってみる。
一人分にさえならなかったから。
顰めた顔のままの彼の前に出してみる。
・・・・・とうていお褒めの言葉は頂けないだろうけど。
「・・・・・・・まずい。」
案の定、顰めた顔の眉が寄せられて。
呟かれた言葉に、俯いてしまう。
喜んでもらおうと思ったのに、こんなものしか作れないなんて。
これでは無病息災どころか、病気になってしまうのではないか。
申し訳ない気持ちで謝罪をしようとして顔を上げたのだけれど。
その時、青年から重ねて浴びせられた言葉は、少女にとっては心無いものだった。
「ったく、料理といい、ピアノといい・・・もう少し上達って言葉、憶えた方がいいぜ。」
「?!」
「取り柄の一つでもなけりゃ、将来真っ暗だぜ、おまえ。」
それはいつもと同じからかいだったのかもしれない。
けれど自分の失敗で落ち込んでいるアンジェリークにとって、アリオスの言葉はきつかった。
それが彼の言葉なら尚のこと。
つらくて・・・・・痛かった。
例え本当のことだとしても、哀しかった。
「んなことじゃ、行き遅れること間違いなしだぜ?」
そんな様子に気付いているのかいないのか、彼は喋り続ける。
「ああ、でも皿洗いと給仕はうまくなったか。バイトも役に立ってるな。」
「・・・・・関係ないじゃない、アリオスにはそんなこと。」
そう、関係ない。
そんな酷いことを自分に浴びせる人には関係ない。
自分の未来には関係ない。
「嫌いよ・・・・・」
なのに、何故目の前が霞むんだろう。
こんなに哀しいのは何故だろう。
「アリオスなんて大っ嫌いっ!!」
一方いきなりへそを曲げられて、別離を告げられた男は。
憎らしいことに少しもそのショックを顔に出すこともなく、泣き出した彼女を頬杖を突いて見ていた。
宥めることも、慰めることも、怒鳴ることもせず。
冷静過ぎるほど冷静な視線で、零れ落ちる涙を見ていた。
「・・・・出来ねぇことは、言わない方が身の為だぜ?」
それがさらに少女の気持ちを逆撫でることは判っていたが。
それよりも、その薄紅の唇から出た言葉への怒りの方が強かった。
彼がなによりも許せないことだった。
「出来るわけない。おまえが俺から離れるなんてことはな。」
そう言って細めた瞳には酷く驚愕した表情が映る。
脅えさえ覗かせたそれは、蒼い瞳が大きく見開かれている。
「そっ、そんなことないわ!あなたなんか、いらな・・・・・・・」
「そんなわけないだろう?」
口の端を上げてせせら笑う。
「俺はおまえの躰にそんなふうに憶え込ませた覚えはないぜ?」
「なっ・・・・・・!」
一瞬にして赤く染まったのは涙の瞳だけではなくなり。
その変化に満足そうに笑って立ち上がる。
そしてその長身を生かしてテーブルを挟んだまま、アリオスはその小さな顎に手を伸ばす。
「なんなら・・・・今すぐに思い知らせてやろうか?」
「・・・・・・・・・やめて。」
びくりと体を震わせて。
彼から逃げるように、アンジェリークは俯いて後ずさりする。
されなくても判ってる。
ただ触れられるだけでも、思い知ってる。
どれほど自分にとって、この人が必要なのかは。
「嫌いよ、あなたなんて・・・・・」
口元を両手で押さえて、嘘を繰り返す。
音にして自分に言い聞かせていないと、流されそうだった。
甘い誘惑に、その胸に飛び込んでしまいそうだった。
確かに青年の言う通り、刷り込まれているから。
躰だけでなく、心にも。
彼が奏でるピアノも。
彼自身も。
少女が今よりも少しだけ子供だった頃から翻弄し続けてきた。
深く内を侵して、逃げられないように縛っている。
そして、それを自分が望んでいることも判っている。
判ってはいるけれど・・・・・認めたくない。
流されるのは、嫌。
「アリオスなんて、嫌い・・・・・」
けれど、今、口にしている嘘は苦しい。
「嫌いなら嫌いで結構。」
少女が俯いたままだった顔を上げると、不遜な微笑みを湛える青年。
絶対の自信を秘めた人が見下ろしていた。
「けどな、」
その手が彼女の茶色の髪に触れる。
「他の奴で俺の代わりが務まるとは、とても思えないんだがな。」
「・・・・・・・・」
呟かれた言葉にぎゅっと口元で拳を作る。
ありとあらゆる意味で。
その存在に代わる者はいない。
代わりなんて出来ない、誰も。
「・・・・・・・・ったく、なに拗ねてるんだよ、おまえは。」
呆れたように吐かれた溜め息。
それが髪に掛かり、アンジェリークは身を竦める。
「『嫌い』だって、何度も繰り返されて言われるこっちの身にもなってみろよ。」
例えそれが偽りだと判りきっていても。
いくら彼だってその自信が揺らぐことがある。
外からは、全然分かり得ないが。
「万が一、俺がおまえの戯れ言を信じたらどうする気だ?」
「ご、ごめん・・・・・・・って、本当だもん!大嫌いよ!」
一度は謝罪を口にし慌ててそれを否定する姿に、アリオスは苦笑する。
「俺がいなくて泣くのはおまえだぞ?」
「なっ、泣かないわよ!」
「大体な、」
強情を張ったその言葉を聞かず、後ろから何かを差し出す。
「嫌いだったら、こんなもの書くわけないだろ?」
出されたものは数枚の白い紙。
何か書かれているそれに、少女はいったい何かと見入るが。
それがなんなのか気が付いて、カァッと頭に血が上り。
それを彼の手から奪おうとするが。
当然ながら、失敗する。
「か、返してよっ!!」
真っ赤な顔で青年を睨むが。
そんなものはものともせず、アリオスはそれを読み上げようとする。
「なになに・・・・『わたしの将来の夢は、大好きな人と家・・・・』」
「きゃあ〜〜っ!!読まないで〜っ!!」
彼の目線以上に上げられた手の原稿用紙をぴょんぴょん跳んで、なんとか取り返そうとする。
その慌てぶりに満足したのか。
笑って、それで少女の頭を一度軽く叩いて渡す。
もちろん、彼女が気が付いてない間にその全てを読んでしまったが。
「なんで、アリオスが持ってるのよ?!」
泣きたいぐらいに恥ずかしいらしく、涙を浮かべて紙の束を胸に抱きしめる。
「テーブルの上に出しっぱなしにしときゃ、誰だって盗めると思うぜ?」
そう。
鍋の惨事に気が付いて。
慌ててコンロに向かって。
やっていた宿題は、書き掛けの作文は、置いたままだった。
やらかした失敗にすっかり頭から抜けていたが。
「んな、小学生みたいな夢見るなよ。しかも、小学生並みの文章で。」
「余計なお世話よ。・・・・・いいじゃない、別に。」
夢を完全否定されて、アンジェリークはむくれる。
「ったく、そういうのはもう夢じゃないだろう?」
「え?」
「現実だ、現実。」
一瞬意味が判らず。
首を傾げて、彼を見る。
けれど再び顎に手を掛けられて、目を見張る。
「何人欲しい?協力してやるぜ。」
からかい気味に面白そうに言われて、朱に染まったままの頬を更に赤味を帯びさせる。
「でも、ガキをピアニストにするのだけは止めてくれよ。俺からの条件はそれだけだ。もううんざりだからな、あんなこと。」
なんだかとんでもないことを、さりげなく言われてる気がする。
突然夢を現実に引き出されて心が着いて行かず、頭がくらくらと回り出す。
「しょっ、将来の夢だって言ってるでしょう・・・・・・」
「ああ、そうだったな。」
どう反応していいのか判らず強張った顔で見上げられて、零れる笑いを堪えるため彼女に触れていた手を口元にやる。
「ま、その将来とやらまでには、ちゃんと覚悟決めておくんだな。」
何故か、なにを?とは聞けず。
不可解なまま少女は手に持っていたものをバッグにしまい、代わりに財布を出す。
「どっか行くのかよ?」
「・・・・・・・・だって、焦がしちゃったんだもん。」
ふて腐れながら、マフラーを首に巻く。
「おまえ、『別れる』ってタンカ切ったんじゃねぇのか?」
含み笑いで更に尋ねられて。
困った顔で彼を見上げる。
「・・・・・・別れたい?」
「いや・・・・・出来るとも思ってないんでな。」
何も自分が少女を縛っているだけじゃない。
自分も、縛られている。
ガチガチに。
それを悟らせないのは、やっぱり小憎らたしいことなんだろうが。
そして袖を通そうとしていたコートを取り上げる。
「なにするのよ。」
「別にわざわざ作り直さなくてもいいだろうが。他に食いもんがないわけでもあるまいし。」
「だって・・・・・」
不服そうに彼を見上げるその姿に、口の端を上げる。
「それに、だ。言っただろ?おまえの書いたことは現実だ。おまえの料理の腕がどうだろうと、かまやあしねぇよ。」
「アリ・・・・・・」
言われた意味に、少女は嬉しくなり名を呼び掛けるが。
「だから、代わりの奴なんかいねぇってことだ。ったく、俺ぐらいなもんだぜ、おまえの酷い料理を文句一つ言わずに食うのは。」
いけしゃあしゃあと言われたその言葉に、一瞬絶句し。
次の瞬間、これ以上ない膨れっ面で声を上げる。
「どこがよ〜〜〜〜〜っ??!!」
欲しいものは『家族』。
二人とも、それは一度失ってしまったけれど。
また、手に入れたい。
大好きな人と一緒になら。
これ以上嬉しいことはないと思う。