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天使が普通の女の子に戻る日
「やっぱりいないわよね・・・・・」
バレンタインデーの朝。
綺麗にラッピングされた箱を胸に抱き、少女は誰もいない約束の地を見回す。
小さく溜め息を吐いて、一本だけある大きな樹の根元にアンジェリークは座り込む。
「そうよね、今日は水の曜日だもの。」
あの人がここにいる日じゃない。
判りきっているのに、それでも朝一番に息を切らせて走って来てしまった。
我が補佐官に今日の予定も伝えずに。
こんなことなら、昨日渡せばよかったな。
けれど今日がバレンタインデーだと判ったのは、昨日彼と別れてから。
時と次元の歪みの中に存在する地で、王立研究院が割り出した日時。
それをレイチェルから面白そうに教えられたのは夕べのことだった。
慌てて、けれど隠れて誰にも判らないように。
この胸の包みの中身を作って、包装して、リボンを掛けて。
今日が会えない日だと気が付いたのは、全て出来上がってからだった。
早く教えてくれればよかったのに。
八つ当たりと知りつつも、ついつい親友対する恨み言を心の中で思ってしまう。
「逢いたかったな・・・・」
葉の隙間から見える彼が好きだと言う雲を眺めて呟く。
約束はしてないけれど、今日が何の日か判ってないだろうけれど。
それでも今日、渡したかった。
「アリオス・・・・・」
「なんだよ?」
「っ!!」
独り言に返事を返されて、少女はビクッとする。
目線を空からほんの少し下げるとそこには、何故気付かなかったんだろうと言う距離に金と碧の瞳。
思わず後ずさりして、樹の幹に体を押しつけてしまう。
「おまえ・・・人を思わせぶりに溜め息交じりで呼んどいて、その態度はねぇだろ?」
「え?あ・・・ごめんなさい。まさか逢えるだなんて思わなくて。」
小さく微笑む少女に、アリオスは樹に片腕を付いて赤い顔を覗き込んだまま眉を寄せる。
「・・・・・おまえ、俺に逢いに来たのか?」
確かに何かに呼ばれたような気がして、ここにやって来たのだが。
まさかこの地の育成で忙しいはずの彼女がぽーっと空を見ているとは思わなかった。
いや、本当のところ少しは思ったのだが。
しかし自分を呼んだのが少女の想いならともかく、女王のサクリアだとすればなんとなく癪だった。
どっちにしろ、アンジェリークの力には相違ないにもかかわらず。
「う、うん・・・・逢えてよかった。」
「昨日、逢ったばっかだろ?」
自分を見上げている彼女の横に座りながら、青年は尋ねる。
「ったく、何がそんなに嬉しいんだ?」
実のところ、嬉しそうなのはアンジェリークばかりではない。
だが頭に血が昇っている状態の少女では、到底目の前の彼が浮かれているのに気が付く訳もない。
いや、ひょっとしたら普段の彼女でも気が付かないかもしれないのだが。
「あ、あのね、あなたに渡したいものがあったから・・・・」
「渡したいもの?」
「うん・・・・・・その、チョコレートなんだけど・・・・・」
いざ渡す段階になって、恥ずかしさが込み上げてくる。
思えば、今までチョコを渡していた相手なんてそう多くはない。
父親とか、クラスのみんなであげた学校の先生とか、その程度だ。
こんなふうに対面で、しかも一対一で渡したことなど一度もない。
「今日ね、バレンタインデーなの。気が付くのが遅くて急いだから、溶かして型に流しただけだし、他にプレゼントもないんだけど・・・・」
しどろもどろに口走りながら、手に持った包みを彼に差し出す。
すっかり頭から抜けていたけれど・・・・
もし受け取ってもらえなかったらどうしよう。
不安と緊張で、頭の中がぐるぐるになってくる。
「・・・・・チョコだけか?」
ぽつりと尋ねられて、思わずぎゅっと瞑ってしまっていた目を開ける。
「な、何か欲しいもの、あるの?アルカディアで手に入るものだったら、明日・・・・」
「馬鹿。そうじゃない。」
剥き出しの額を呆れた顔でこつんと小突かれて、アンジェリークはきょとんとする。
「おまえの言うバレンタインデーは、チョコやプレゼント渡すだけの日なのか?」
「え?」
「何の日なのかって聞いてるんだよ。」
意味ありげに笑われて、少女は思考を巡らす。
「何の日かって・・・・・」
バレンタインデー。
世間一般では、女性が男性にチョコレートを贈る日。
そして。
―――――――――――― 愛を告白する日。
自分の言いたいことにやっと思い至ったらしくみるみる赤くなる顔に、アリオスは面白そうに笑い返す。
「で?告白とやらは、しないのか?」
「あ・・・・え・・・あの・・・・・」
しどろもどろさが増した少女にからかいの眼差しを向ける。
「ああ、そうか。義理チョコなら、んなもんないよな。」
「ぎっ、義理なんかじゃないわっ!!!」
すごい勢いで否定する様子に一瞬呆気に取られるが。
見事に思惑に引っかかった彼女に、彼はニヤッと笑う。
「だったら言ってみろよ。ちゃんと言えたら、貰ってやるぜ。」
「う・・・・・」
「言えないか?別にいいんだぜ、俺はどっちでも。」
絶句している少女を見て、心の中で苦笑する。
たった一人の為に世界の全てを敵に回すようなことは平気で口にするのに。
どうしてその根底となる感情を言葉にするのに、こんなに恥ずかしがるのか?
まったくもって不思議でならない。
躊躇う必要など、もうどこにもないはずのに。
もっとも。
そのことは、彼自身にも言えることなのだが。
「す・・・・・・・・・・・・・」
「す?それから?」
「・・・・・・・・・・・・き。」
彼女はやっとのことで二文字を口にしてみるけれど。
「誰のことがだよ?」
だがほっとする間もなく、さらに追い討ちを掛けられる。
「誰が好きなんだ?」
「・・・・・・・・わたしの目の前にいる意地悪な人よ。」
半分自棄になって、アンジェリークはひねくれて答える。
「それじゃ、おまえが好きなのは俺じゃねぇよな。」
けれどそんなふうに言われては、言い直すしかない。
「・・・・・・・・わ、わたしが好きなのは、」
「・・・・・なのは?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アリオスよ。」
やっとのことでなされた告白に、青年はクッと笑う。
「最初から素直に、そう言やあいいんだよ。」
彼女の手から包みを取り上げて、口の端を上げる。
「それにしても、だ。ちゃんと食えるものが入ってるんだろうな。」
「失礼ね。ちゃんと、わたし味見したわよ。」
少し膨れながらも、小生意気にちゃんと抗議してくる。
「そうか?」
立てた膝に頭を載せて自分を見上げる少女に目を走らせる。
「うん・・・だから、ちゃんと食べてね。」
けれど次の瞬間、染まった頬で小さくはにかんで願う無防備なその姿に目を奪われる。
「・・・・・・・・・・・じゃ、まずは本当に味見したかどうか、確かめねえとな。」
「アリオス?」
言っていることが理解できずに首を傾げるアンジェリークの体をアリオスは抱き寄せる。
「どういう・・・・意味?」
この期に及んで、まだ判ってない彼女のその顎を決る。
「・・・・・・味見した奴の味見するって言ってんだよ。」
「あ・・・・」
丸く見開かれた瞳を無視して、彼はその小さな唇に自分のそれを重ねる。
告白された以上、嫌がられるとは少しも思わないから。
「・・・・美味し、かった?」
突然のことに戸惑いながらも問う少女の小さな声に、青年は少々驚く。
けれどそれは微塵にも出さずに、色違いのその瞳を細め思案する。
自分が呟いた言葉が女として価値があるかと聞いているのも同然だと言うことに、気が付いているのだろうか?
まったく・・・無防備すぎるにも程がある。
「へぇ・・・・おまえも言うようになったじゃねえか。」
「だ・・・だって、味見だなんて言うから・・・・」
あなたに話を合わせてみただけよ?
そう真っ赤になって上目遣いで睨む蒼い瞳に、まるで悪戯を思い付いた子供のように笑う。
「ア、アリオス?」
その表情に淡い期待交じりの嫌な予感がして、彼女は彼から逃れようとする。
けれど、もちろん離してもらえるわけもなく。
頬を染めてその顔を見上げることしか出来ない。
「一口だけじゃ、判らなかったな。」
「え?」
「もう一口、今度はじっくり味わってみねえとな。」
口の端を上げながら座ったままに抱え上げられて。
膝の上にしっかり抱きかかえ直されて。
アンジェリークはその腕の中で硬直してしまう。
「な、アンジェ?」
珍しくにっこり笑いながら促されて。
その裏にどんな表情が隠れているのか、この状況でさすがに判らない訳ではなかったけれど。
バレンタインデーだから。
愛を告白する日だから。
今日は、今だけは。
普通の女の子に戻っても、いいよね?
「・・・・・絶対、美味しいんだから。」
「クッ・・・・だといいがな。」
湯気が出そうなくらいに血を昇らせて、けれど断言する少女の頬に手を滑らせて。
アリオスはその温もりに安心して微笑む。
「ま、程々に期待してるぜ。」
憎まれ口を叩きながら、天使の薄く開かれた唇にくちづけるのだった。