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Matin
カーテンの向こうで朝日が昇り出した頃。
暖かいベッドの中でアンジェリークは目を覚ました。
もっとも暖かいのは布団に包まっているからだけでなく、彼女の愛する旦那様に抱きしめられているからなのだが。
頭を上げて彼の顔を下から覗き込み、その神秘的な色違いの瞳が閉じられたままなのを確認してほっとする。
よかった。
どうやら自分が起きたことに気が付いてないようだ。
もう少しだけ、この優しいぬくもりに浸っていたい気もするのだが。
朝食と旦那様のお弁当を作らなければならない。
名残惜しい気持ちを胸にしまって、そぉーっとその腕から抜け出す。
もし彼が起きてしまうと、少々困ったことになってしまうから。
どんなに駄目だと言っても放してくれない。
当然、お弁当どころか朝食さえ作れず。
それどころか、旦那様は遅刻寸前で家を出て行き。
奥様としての面目丸つぶれだ。
もちろん、端から見ればアンジェリークは少しも悪くないが。
そんなわけで。
無防備に眠る黒髪の掛かった頬にキスしたかったのだが、これまたそれがきっかけで起きられたら困るので、我慢してベッドから抜け出す。
そしてクローゼットを開けて着替えを取り出し、こっそり部屋の扉を開ける。
別にここで着替えてもいいのだが、もし最中に目覚められたらそれこそとんでもないことになる。
気を付けるに超したことはないのだ。
そっと部屋から出てドアを閉める。
「・・・・・行ったか。」
ベッドの中で寝ているはずのレヴィアスは、薄目を開けて髪を掻き揚げながら愛しい妻が出て行った扉を見遣る。
ご推察も出来るとは思うが。
彼に限って寝ている訳がないのだ、彼女の温もりを逃して。
それでも眠っている場合は、よっぽどの爆睡をしている時だ。
そんなのは年一回もない。
彼女がいてこその安眠であり、褥なのである。
アンジェリークがここにいないのなら、そんなたいした物ではない。
もっともそれは寝室に限らないことではあるのだが。
だから、起きて自分の側からいなくなろうとする彼女を捕まえたくなる。
手が届くどころか、身の内に閉じ込めておきたい。
公言して憚らない、それが彼の本当に本音だったりする。
けれど、奥様が泣いて怒って妻の存在意義を主張するから。
渋々ながらも、寝ている振りをしてみる。
もし嫌われて「別れる!」なんて馬鹿なことを言い出されると困ってしまう。
こんなことなら、ひょっとしたら結婚なんてしなかった方が良かったかもしれない。
彼女が妻としての役割に燃え、それで一緒にいる時間が減ってしまうのなら。
恋人のままでいたほうが良かったかもしれない。
それはそれで彼にとって都合が悪いことも多々ありすぎるのが。
加えて、結婚前にも一つ屋根の下にいたりしたこともあった。
だから、何も変ってないといえば何も変ってないのかもしれないが。
それにしたって、紙切れ一枚でこんな寂しい思いをしてしまうとは。
もちろん、アンジェリークが張り切るのは自分の為だということは重々承知しているつもりではあるのが。
ふぅっと、鬱陶しそうに溜め息を吐いて。
彼はもうしばらく、たぬき寝入りを決め込んだのだった。
お味噌汁を作って。
魚を焼いて。
ご飯はもうすぐ炊き上がる。
朝食の準備をしたアンジェリークは、旦那様のお昼のお弁当に取り掛かる。
今日のメインは海老フライを挟んだエビサンド。
冷凍食品でなく、ちゃんと生の海老にパン粉を付けて揚げる。
いつもより少しだけ大きい海老が油の中を泳ぐのを見て、思わず笑みが零れてしまう。
レヴィアス、美味しいって言ってくれるかな?
喜んでくれるといいんだけど。
そんな杞憂なことを思いながら、彼女は菜箸で一番最初に揚ったフライを上げようとするが。
「・・・・・・・・アンジェ。」
突然後ろから抱きすくめられて名を呼ばれ、思わず固まってしまう。
「レ、ヴィアス?」
「おはよう。」
少し首を捲らせた驚いた顔に、小さく笑って彼は挨拶を口付ける。
「お、おはよう。あいかわらず、早起きなのね。」
とうとう我慢できなくなって起きてきただけとも未だ気付かずに、彼女は少し赤くなって微笑む。
「それで、あの・・・・・」
「なんだ?」
「・・・・・放して、欲しいんだけど。」
いい加減上げないと、エビフライがこげてしまう。
せっかく綺麗なキツネ色に揚ってるのに。
油の前なので、むやみに身を捩って彼を離れさせることも出来ない。
「嫌だ。」
その理由は判るが、あっさり断る。
何故に、たかが揚げ物ごときに彼女を取られねばならないのか。
「お願い、少しだけだから。」
「嫌だと言ってる。」
「お昼困るでしょう〜!」
「別にコーヒーだけでも平気だ。」
切望しても断られ、アンジェリークは泣きたくなってしまう。
「・・・・せっかくふんぱつしたのに。」
聞こえてきた声が微かに湿っていることに気が付いて、レヴィアスはぎょっとする。
「喜んでもらおうと思って、いつもよりちょっとだけだけど大きな海老にしたのに、レヴィアスのお弁当だから、そりゃ、わたしの自己満足かもしれないけど、海老だってこげたら悲しいじゃない、それともわたしの作ったお弁当が・・・・・」
「悪かった、早く上げてやってくれ。」
パッと放して、切実に長々と、かつ、支離滅裂気味に訴える彼女を促す。
ことある度に泣かせている割には、その涙に弱い。
「・・・・・ありがとう。」
短く、けれどちゃんと礼を言って、アンジェリークは素早くエビフライを助け出す。
ちょっとだけ色濃くなってしまったけれど、おいしそうに揚ったと思う。
満足そうに振り返り、黒髪の旦那様を見上げてにっこりと笑う。
「お昼、楽しみにしててね。」
「あ・・・・・・・・あぁ。」
奥様の嬉しそうに細められた蒼い瞳につられて、他の誰にも見せないような微笑みを返す。
結局。
笑顔にも弱い彼だった。
「いってらっしゃい、レヴィアス。」
アンジェリークは玄関先で、先程我慢した頬に背伸びして見送りのキスを贈る。
「クッ・・・・・行ってくる。」
「〜〜〜〜〜っ!」
けれど、レヴィアスが笑って返したのは当然唇へのもので。
誰が見ているか知れない場所でのことに、彼女はどうしても赤くならずにいられない。
そんな朱に染まった顔にもう一度口付けて、彼は車に乗り込む。
「気を付けてね。」
「ああ、判った。」
車が見えなくなるまで見送って。
少し寂しくなったけれど。
あの人が帰ってくるのはここだから。
大丈夫。
・・・・・あ♪
天気がいいから、お布団干さなきゃ。
奥様は空を見上げ暖かいベッドを想像しながら、家の中に入ったのだった。