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Angelic Arietta4




時が過ぎ。

春が来て。
夏が来て。
秋になって。
冬になる。

そして、やがて春は、またやって来て。

ずっと変わらないと思っていても。
今のままいたいと思っていても。

やっぱり変化は、少しずつ訪れている。

わたしにも・・・・・・・
ううん、わたし達にも。

きっと ――――――――――――――― たぶん、いい方向へ。

そう、信じてる。



「なにやってるんだ、おまえ?」


テーブルの上に膨大な量の紙を広げ、それとにらめっこをしていた少女は掛けられた声に振り返る。
そこにはこの部屋の主。
シャワーを浴びたばかりの彼が濡れた銀髪を拭きながら、怪訝そうに立っていた。
「えっとね・・・・大学のパンフレット見てたの。」
「は?」
躊躇いがちなアンジェリークの言葉に、アリオスは眉を顰める。
「なんだよ、おまえ、エスカレーターじゃないのか?」

彼女が通う高校は初等部から大学部まで完備されていて、おまけに幼稚園まで付属している。
そこに入ろうと必死になる輩は多くても、そこから抜け出そうとする者はそうは多くない。
他の学校で学びたいことがあるか、それとも家の事情か。
どちらにしろよっぽどの理由がない限り、本人が望んでいても周りが許さないだろう。
そうでなくても、坊ちゃん嬢ちゃん学校である。
そこが出身校であると言うだけで、かなりのネームバリューが今もあったりする。

「だって・・・・いつまでもお姉ちゃん家の世話になってちゃいけないと思うし。そういうの、もう嫌だなって思ったから・・・・・・」
少し意外そうな彼の質問に、別世界に住む金の髪の姉の姿を思い浮かべながら俯く。

けして嫌いとか、そう言う訳ではないけれど。
もう離れて暮らしてずいぶん経つのだ。
いつまでもその好意に甘えている訳にもいかない。
もっともその姉は、純粋に妹を可愛がってのことだと思うのだが。

「公立なら、お姉ちゃんに面倒見てもらわなくてもいいし。バイトしながらだったら、行けると思うの。」
けれど思い直したように微笑んで、隣に座り込んでパンフレットを眺める人を見上げる。
「・・・・おふくろさんはそれでいいって言ってるのか?」
「え?・・・・・うん、だって前から言ってたのよ。『あそこまでの金持ち学校じゃなかったら、どこだっていかせてあげられるのに。』って。」
女手一つ・・・とまではいかなくても自分を立派に育て上げてくれた母の口調を真似ながら、少女はくすくす笑う。

もっとも彼女が忙しく働いていたせいで、ずいぶんと寂しい思いもしたのだが。
今は寂しくない。
隣を見上げれば、大好きな人がいてくれるから。
おぼろげながらも、ささやかな幸せが見える気がするから。

「そうか。だったら、俺はなにも言わねえよ。」
その笑顔に目を細め、アリオスは手に持っていたものを放り投げる。
「入試の苦労は俺にはよく判らねえが・・・・ま、がんばれ。」
「うん。」
茶色い髪をくしゃと撫でてやると、少女は嬉しそうに頷いた。
「でも・・・・そっか。アリオスは推薦・・・・だったのよね?」
「まぁな。あの時は・・・・試験の時はまだ、この傷はなかったからな。」
彼女の頭に置いていた手を戻して忌々しそうに見つめ、青年は溜息を吐く。
「決まった直後だったのに、よく取り消しにならなかったと思うぜ。」

結局、あの事故の余波で、二年も休学したが。
数限りない陰口を叩かれたもしたが。
『今』、役に立っているのか判らないのだが。

「ダメになったピアニストでも、多少は役に立つとでも思ったのかもな。腐っても、コンクール優勝者であることには変わりないからな。」
タバコに火を付けふぅっと煙を吐きながら、アリオスは過去を遡る。
「もっとも行ったおかげで、そこらの奴らよりもよっぽど俺の方がうまいことがよ〜く判ったがな。」
「イヤミねぇ・・・・・」
「事実だろ?ったく、実にくだらない時を過ごしたもんだぜ。」
開き直る彼に、アンジェリークは呆れてしまう。
「そんな、嫌々なら行かなきゃいいのに・・・・・」
そうすれば、他の誰かがその枠に入れただろうに。
まだ入試の苦しさは想像でしかないけれど、それでもこんな態度の人の為に落ちてしまった次点の人がなんとなく可哀想に思う。
「バーカ、俺が我に返った時にはとっくに桜は散ってたぜ。それにだ、」
「なに?」
「あの頃は、嫌だとさえ思わなかった、無感動無関心って奴か。蹴落として当然の世界だからな、気にする奴は馬鹿なんだよ。」
「そういう、ものなの?」
なんだかいまいち判らないが、壊れていたらしいあの頃の彼と音楽家の卵達の実力重視の世界を考慮すると、そういうものなのかと少し落ち込む。

「そう言うおまえは、行きたくて行くんだろうな?」
けれど尋ねられて、彼女は躊躇いがちに頷く。
「う、うん・・・あのね、保母さんになりたいなって・・・・」
「ぶっ・・・・・!」
「ぶっ?」
ほんの少しテレながら告白した当面の夢を吹き出され、アンジェリークはムッとする。
「なにがおかしいのよっ?!」
「ガキがガキの面倒見るのか?」
「なっ・・・・・?!ヒドイッ、アリオスから見たら確かにいつまで経ったって子供かもしれないけど、もうすぐ18になるのよ、わたしっ!」

年齢差は縮まる訳がないのだから、ある程度は仕方がないと思う。
けれど、いつまでも小さな子供扱いでは悲しくなる。

「それとも・・・・・・アリオスはわたしのこと、子供の面倒見ている気分なの?」
蒼い瞳に涙を溜め、それでも睨むように見つめてくる少女に、アリオスは小さく溜め息を吐く。
「ったく・・・・そんな訳ないだろ?悪かった、少しからかいが過ぎたな。」
「本当に悪かったと思ってる?」
「ああ・・・・・」
拗ねた声で重ねて確認する彼女に苦笑し、彼は目を細める。
「おまえの未来を笑えるほど、俺は立派な夢を持ってねえしな。」
「アリオス・・・・・」
「馬鹿、そんな顔すんな。」
「?!」
一転してしょんぼりとする少女の額を笑いながら小突く。
「別に今の生活は嫌じゃねえよ。・・・・おまえもいるしな。」
「・・・・・・・・・・うん。」

「それにしても、よくもまぁこんなに集めたもんだな。というか、時期的に遅いだろう、もう。」
嬉しそうに胸に縋り付いてきたアンジェリークの肩を抱きながら、アリオスはテーブルの上を見て呆れる。
「だって、判んないんだもん。それに選択肢は多いほうがいいじゃない。」
「・・・・・ものは言いようだな。」
開いてるほうの腕を伸ばしその中の一つを再び手に取って、小さく頷く。
「アリオス?」
そのしぐさの意味するところが判らず、少女は青年を見上げ首を傾げる。
「選択の幅を狭めるようで悪いが、おまえに選べる頭があるんならここから近いところにしろよ。」
「え?」
「おまえ、車が苦手だろ?遠いところなんて行ったら、通うの大変だぜ。」

確かに車は苦手だし、遠いところはあまり気が進まないのだが。
彼女が、今、問題とするのはそこではなくて。

「ここって・・・・・ここ?」

ここは、自分を胸に抱いている人の部屋。
大好きな人の、部屋。
初めて好きになった、そしてこれからもずっと好きでいられると思える人の。

なら、その彼の言葉の意味は ――――――――――

「嫌なのか?」
「え・・・・・ううん、違うの。そうじゃなくて・・・・」
眉を顰められ尋ねられて、アンジェリークは慌てて首を振る。
「そうじゃなくて・・・・びっくりしたから。そんなこと、今言って貰えるなんて思わなかったの。」
頬を染めて、不機嫌そうな顔の青年に必死に言い解く。
「でも、でもね、わたし、嬉しいから・・・・・・ありがとう、アリオス。」
「クッ・・・・・・ああ。」
首に腕を回して抱きついた少女を、アリオスは今度は両腕で抱きしめる。
が、ふと彼女の言葉を思い出し、口を開く。
「でも、もし大学に受かってバイトするにしてもだ、あの店のウェイトレスのバイトだけは増やすなよ。」
「え?なんで?」
きょとんと覗きこんでくる表情に、彼は頭を抱えたくなる。
「俺もそうそう暇じゃなくてな。残念だが四六時中見張っててやれないんだ。」
「やだ・・・・そんな、いつまでもオーナーを見張ってなくても、大丈・・・・・」
「い〜や!あいつの女の手癖の悪さだけは永遠に信用ならないからな。」
きっぱりと言い切る恋人の姿に嫉妬を垣間見て、少女は思わず笑みが零れてしまう。
「なに笑ってんだよ?」
「ううん・・・・わかった、アリオスの言うとおりにする。」
再びぎゅっと抱きついて、アンジェリークはくすくすと笑う。

「あなたと一緒に暮らせるよう、わたし、がんばるね。」


その言葉に一瞬、瞳を見開いて。
けれどすぐに目を細め、彼は彼女を抱きしめたまま小さく頷いたのだった。