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Rainbow
「アリオスお兄ちゃん!」
庭木にホースで水を掛けていた彼は後ろから名を呼ばれ、少し頭を回す。
「おはよう、お兄ちゃん!」
木で出来た白い柵の向こうには、これまた白い制服の少女。
「見て見て、今日から夏服なの!似合う?」
「ったく・・・・・・朝っぱらから、なにはしゃいでるんだよ、おまえは。」
芝の隙間に備え付けられた蛇口を閉め、溜め息を吐きながら彼女の側まで行く。
「・・・・・・褒めて、くれないの?」
「クッ、馬子にも衣装、だな。」
彼はシャツの胸ポケットからタバコを出して火を付けた。
表向きは平静は装っているものの。
その胸の内は憎まれ口を叩きながら、かなり動揺していた。
それも今日昨日のことではなく。
たぶん、もうずいぶん前から。
ご近所のコレットさんの家に女の子が産まれたのは、アリオスが11歳の時だった。
「仲良くしてあげてね。」
そう言ったのは、彼女の母親。
少年の淡い初恋の人である。
ちなみに、彼が幼い頃通っていた幼稚園の保母だった。
その女性に頼まれたのだ。
強い使命感に燃えるのは、例え子供でも男として当然のこと。
自分の後ろにちょこまかと着いてくる茶色の髪の少女。
その彼女をまるで妹のように可愛がり、大切に育て上げた。
――――――――――――――――――― そう。
青年にとって『妹』だったのだ。
ある日、突然。
彼が目の前の少女の成長に気がつくまでは。
子供っぽいしぐさの中に、『女』を見つけるまでは。
「ぜんぜん褒めてないじゃない!」
「褒めて欲しかったら、そのガキくせぇ体型を何とかしろ。」
ぷうっと頬を膨らますアンジェリークに、半分は心にも思ってない言葉を浴びせ掛ける。
早く大人になって欲しい、という気持ちは確かにある。
けれど、それは同時に自分以外の誰かが少女の魅力を見つけてしまうことにならないか?
誰かが彼女を奪い取って攫ってしまわないか?
いや、今現在彼のモノでもないのだが。
ついそんなことを危惧してしまうのだ。
それに、今のままでも充分過ぎるほどアリオスを翻弄していたから。
かなり感情を持て余し、押さえつけるので必死だった。
無理に気持ちを押し付け。
『兄』でさえいられなくなるのは恐かった。
だから、未だ想いが告げられない。
彼を知る者はその葛藤を知ったなら、信じられないという顔をするに違いない。
もしくは、笑えない冗談だと爆笑されるか。
もっといえば、十以上も離れた少女に心を奪われるなんて、らしくないと思われるだろう。
アリオスという男は、仲間内ではそういう人間だ。
他人にいい顔をされない馬鹿なことだって、多少はしたことだってある。
けれど、少女の前では違った。
幼子の小さな手が彼の人差し指を握った時に誓ったのだ。
「この子は俺が守る」と。
だから、せめてもう少しだけ。
このまま、彼女との時を過ごしたい。
「ガキじゃないわよ。身長だって160越えたんだから。」
大威張りをする少女に思わず脱力する。
「馬鹿が・・・・誰が身長の話してるんだよ。俺は、出っ張るところを出っ張らせって言ってるんだぜ?」
「・・・・・・・・・・・・お兄ちゃんのHッ!!」
みるみるうちに怒りなのか恥ずかしさなのか顔が赤くなるのを見て、彼は心の中で苦笑する。
この程度のことでこんなに血が昇るのなら。
自分の本心を知ったらどうなるだろう。
それを思うと頭が痛くなる。
「悪かったな、Hで。こっちはおまえが赤ん坊の頃から知ってるんでな。ズンドーな体型は見飽きてんだよ。」
「そ、そんなにズンドーじゃないもん・・・・・・」
自信なさげに呟かれた言葉に、形のいい口の端を少し上げる。
「そうかぁ?昔とちっとも変わってないぜ、おまえ。」
「そんなことないっ!ちゃんと成長してるわよっ!」
「クッ、まぁそういう事にしておいてやるよ。」
本当に成長しているのなら、目の前に人物の心中に気が付いてくれてもいい頃だと思うのだが。
少しも気付きゃしないと、彼は小さく口の中で舌打ちをする。
「思ったんだがな、」
ふと高台にある時計塔に、青年は碧の視線を向ける。
「なに?」
「もう8時半過ぎたぞ。・・・・・遅刻するんじゃないか?」
「え?」
少女は自分の腕時計を見て思いっきり焦る。
「ああーっ!!なんで早く教えてくれないのよっ!!」
「知るかよ、おまえが勝手に話し込んでるんだろ。」
「もうっ!じゃあね!!お兄ちゃんもお仕事、ちゃんと行くのよ!!」
彼女は、そう言い捨てて慌てて駆け出した。
だが10メートルほど行ったところで、彼の所まで戻ってくる。
「どうした、忘れ物か?」
「ん〜・・・・・ちょっとしゃがんでくれる?」
悪戯っぽく口元に指を当てるアンジェリークに、アリオスは眉を顰める。
「・・・・・なに企んでる?」
「失礼ね、人聞きが悪い。遅刻しちゃうから、早く早く!」
「ったく・・・・ほらよ。」
タバコの火を消して渋々と彼は背を丸めた。
今はあまり彼女との距離を縮めたくないのだが。
その動作を認めて、少女はにっこりと笑う。
「行ってきます、お兄ちゃん。」
そして青年の銀髪に隠れてない方の頬にまるで羽が触れた様にくちづける。
その思わぬ行動と鼻を掠めた少女の匂いに思わず頭が真っ白になり。
中腰のまま暫く固まってしまった。
はっと我に返った頃には『妹』はとっくに遠く駆けていた。
「あの馬鹿・・・・・・」
彼の心の歯止めが外れたらどうするのか。
いや。
たぶんまだこの場に彼女がいたら、外れていた。
唇の一つくらい簡単に奪っていたことは間違いない。
ご近所の目も気にせずに。
そしたら、少女はどのような反応をしただろう?
軽蔑して逃げ出していただろうか?
それとも受け入れてくれたのだろうか?
「ったく・・・・・こっちにも我慢の限界ってもんがあるんだぜ。」
アリオスはそう独白しながら。
今更ながら、アンジェリークの無邪気な自覚の無さに深く溜め息を吐く。
いつまで続くのか、こんな日々が。
思わず嘆きたくなる。
が、同時にそれが終わるのも恐れていたから。
彼女ばかりを責めることは出来ない。
彼は再びホースを拾い上げる。
そして苦虫をかみつぶしたような顔で、しかし顔を赤くしながら。
七色の虹を作り出す。
それを眺めながらぼんやりと思う。
空に浮んだ虹は、自分の心なのかもしれないと。
色に込められた様々な感情。
相反する気持ちもそこでは一つとなっている。
その虹が少女の蒼い瞳に見上げられる日は、いつなのか?
いや、そもそもそんな日が来るのか?
「・・・・・・らしくねぇな。」
その考えが杞憂に終わることを祈りながら、彼は自分の心を映した水の粒子をしばらく浴びていたのだった。